2023年度の卒業論文の紹介(1)

2024年3月8日金曜日


 今回は、普段の読書ノートとは趣向を変えて、2023年度に僕のゼミで提出された卒論の概要を紹介したいと思います。

 僕のゼミ(公共哲学ゼミ)の卒業論文は、各人が関心を持つ書籍を選び、その内容に基づきながら自らの考察を広げていくという「書評論文」の形式を取ることにしています。

 一般に卒業論文というと、自らの関心のあるトピックを設定し、それについて広く検討を深めていくことになりますが、そのような取り組みには以下の二つの問題があると僕は考えています。(1)参照すべき文献が膨大にある現代では、テーマを決めたり掘り下げたりするためにかなりの時間がかかる。(2)卒業というタイムリミットを前にしてそのように膨大な資料を検討することは、しばしば自分にとって都合のよい議論をパッチワークするだけのものになりがちである。

 これら二つの問題は、書評論文という形式を取ることである程度まで解決されるのではないかと考えています。というのも、四年生は、自分の考えに合っているかどうかとは別に、まずは一人の筆者の議論を丁寧に追うことを求められるとともに、時間的制約の中で自然と焦点を絞ることが可能になる、と期待できるからです。

 以上の方針の下で指導を行い、2023年度は7本の卒論が提出されました。ここではまずそのうち3本について、その要旨および優れているポイントを記していきます。

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R.Y.さん「歴史修正主義と物語の引力:なぜ歴史修正主義は人々を引き付けるのか」

  • 対象書籍:武井彩佳『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』中公新書2021. 

 この論文はまず、武井氏の著作が解説している「歴史修正主義」をめぐるこれまでの事件、およびそれに対する法規制の展開について丁寧に論点を整理します。その上で著者は、その分析には歴史修正主義を受け入れる側の視点が欠けているのではないか、と問題提起します。歴史修正主義が歴史学の観点から受け入れられるものではなく、また法を通じた規制が進んでいるとしても、人々が嘘の歴史に引き付けられる理由も考えて対処しなければ、歴史修正主義を無くすことはできないと著者は考えます。
 そこで著者は、まず物語論やマーケティング研究の知見を参照して、人々は事態や行為をしばしば物語の形で理解するものであること、また、いったん受け入れた物語を否定することは難しいことを示します。その上で、ハンナ・アレントの議論を参照し、近代社会の中で孤立した人間にとって、歴史修正主義の示す都合のよい歴史は心の拠り所を与える物語になりうることを指摘します。では、各人がそれぞれにとって都合の良い物語に引きつけられ、それゆえ社会が分断されてしまうことを避けるにはどうすればよいのか。ここで著者は再びアレントに依拠して、人間関係の網の目からなる「共通世界」こそが重要であると主張します。

 いわゆるポスト・トゥルースの問題をアレントの観点から考えるというのは、ある意味では王道的なアプローチですが、物語を通じたマーケティング手法の知見を手掛かりにするなど、多角的に論じることができており、オリジナリティのある論文になっていると思います。

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Y.S.さん「「愛」のなかでも恋愛は特別なのか?フロムの人間愛の議論から考える」

  • 対象書籍:エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊国屋書店2020.

 この論文は、フロムの有名な著作『愛するということ』を取り上げ、この本の中では恋愛(=パートナーとの一対一の形の愛)がそれほど重視されていないことへの疑問から出発します。人々が孤立化してゆく現代社会において、適切な形で「愛する」ことを学ぶ必要があるのだ、というフロムの主張に基本的には賛同しつつ、しかし恋愛には他の愛の形にはない独自の意義があるのではないかとの問題提起がなされます。
 この問題に対して著者は、現代における「恋愛」について論じるいくつかの論文を参照し、現代社会における恋愛の意義として以下の3点を取り出します。(1)個人の代替可能性が高まる現代社会において、自己のかけがえのなさの感覚が与えられる。(2)恋愛の不合理性の中で、人は「真の自己」に向き合うことができる。(3)雇用の不安定化の中で、社会的承認を得る手段となりうる。以上3点の意義を認めつつも、著者は同時に、自己実現や承認獲得のための恋愛には他者を道具化してしまう危険性があることに注意を促します。そしてこの懸念に関して、愛における対等な関係性を強調するフロムの理論は、現代の恋愛への向き合い方を考え直す指針にもなりうるのではないか、と述べられます。

 恋愛にはどんな意味があるのか(ないのか)、という、自分自身の生活の中の関心が論文の根底にある点に、この論文の魅力があり、そのことがフロムの哲学を現代の文脈で再検討する鋭い視点を得ることにつながっていると思います。

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H.N.さん「脱成長論はどこに向かうべきか?:理論的根拠の比較考察」

  • 対象書籍(1)イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二&渡辺梨佐訳、ちくま学芸文庫2015 .
  • 対象書籍(2)斎藤幸平『 人新世の「資本論」』集英社新書2020.

 本人の強い希望により、二冊の書籍のクロス書評となりました。この論文は、50年前の脱成長論と現代の脱成長論とを比較し、その共通点と相違点を検討するものです。まず両者の主張の要点をまとめた上で、両者の主張の間には多くの共通点があることが示されます。すなわち、脱成長を目指す点、人々の自律性を重視する点、無制限の成長の否定であって原始社会への回帰を求めるものではない点、脱成長の実現にあたってボトムアップのアプローチを推奨する点、道具や技術を自律性を促進するか否かで区別する点が共通点として挙げられます。
 一方で著者は、両者の間には重要な相違があると指摘します。斎藤氏が「使用価値」中心の経済への移行を主張するものの、使用価値の内実に踏み込んでいないのに対し、イリイチにとっては使用価値の内実の評価こそが重要だという相違です。具体例を挙げれば、斎藤氏は保育園などのエッセンシャル労働の評価を高めるべきだという議論にとどまっていますが、イリイチにとっては保育園がどのように運営されるかが重要であり、もいし保育園が管理の道具になるようでは問題だとされているということです。この相違を踏まえて著者は、斎藤の「脱成長コミュニズム」は「コンヴィヴィアリティ」の観点を取り込む形で再構成されるべきだと主張します。

 対象とした書籍がそもそも難解で(特にイリイチ)、また文脈も大きく異なるため、クロス書評とするには多数の困難がありましたが、最終的には共通点と相違点を明確に打ち出し、そして理論的な発展可能性を示すことに、ある程度まで成功していると思います。

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以上、卒論3本の要旨を紹介しました。残り4本は次の項目で紹介します。

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