2023年度の卒業論文の紹介(2)

2024年3月9日土曜日


 前回に引き続き、2023年度に僕のゼミで提出された卒業論文について、その要旨および優れているポイントを記していきます。

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H.S.さん「不適切な謝罪の特徴の明確化と適切な謝罪の方法の考察:近年の事例の検討を通じて」

  • 対象書籍:古田徹也『謝罪論:謝るとは何をすることなのか』柏書房2023.

 この論文はまず、古田氏の著作が取り上げている、多くの謝罪にみられる特徴をひとつずつ丁寧に確認します。次に、現代において失敗した・成功したとみなされている謝罪の事例を取り上げ、それらが古田氏の示す特徴のうちの、いずれを満たしており、またいずれを満たしていないのかをみていきます。具体的に取り上げられるのは、2019年の池袋暴走事故の謝罪、2014年の野々村議員の号泣会見、1977年の山一證券の記者会見、2023年の旧ジャニーズ事務所の謝罪会見の4つです。
 著者はこれらの事例の詳細な検討から、謝罪の「不可欠の」条件として、自主性・自発性、後悔・自責の念、正当化・弁解との区別、という三点を挙げ、これらのうちいずれか一つでも欠けていた場合、その謝罪は不適切とみなされる可能性が高まると論じます。さらに著者は、謝罪が「満たすべき」条件として、具体的な償いの実施、赦しを求めない態度、謝罪相手の明確化、未来への約束、という四点を挙げ、これらが満たされるほど、謝罪の誠実さが高まり、正当な謝罪として受け入れられやすくなると論じます。そして最後に、適切な謝罪の方法として、まず迅速に前者三点に気をつけた謝罪をしたのちに、改めて後者四点を特に注意した謝罪をする、という2段構えの謝罪を提言します。

 古田氏が提示した(明晰ながらもそれなりに複雑な)思考枠組みをしっかり受け止めた上で、それを具体例にただ当てはめるのではなく、むしろ具体例を通じてその思考枠組み自体を洗練させていくという、優れて哲学的な試みになっていると思います。

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T.U.さん「柄谷行人の遊動性概念の現代的意義:ブラック企業からの離脱可能性を考える」

  • 対象書籍:柄谷行人『遊動論:柳田国男と山人』文春新書2014.

 この論文は、柄谷行人の交換様式論の中で重要な位置を示す「遊動性」概念について、その内実を精査しようと試みます。まず、柄谷の議論においては遊動性と「原遊動性」が区別されており、後者は「移動できる」という意味に加えて「いつでも支配から離脱できる=社会および共同体に縛られていない」という意味をもつことを確認します。さらにそこから、後者は現代においては確認できない、遠い昔に忘れ去られ痕跡も残っていないものをロマン主義的な想像力を持って回復しようとするものであり、それゆえに柳田国男の民俗学が引き合いに出されるのだと論じます。
 つづいて著者は、このような遊動性概念を、ブラック企業問題に結びつけていきます。今野晴貴のブラック企業論を参照しつつ、ブラック企業の問題を解決するにあたって労働運動や内部告発、あるいは法規制の強化といった方法は十分に機能しないのではないか、と問題を提起します。というのも、再就職先がなかったり、心身ともに疲弊したりしていれば、そもそもそれらの選択を取ることは労働者には難しいからです。むしろ必要なのは自由にブラック企業から逃げ出す余地を社会的に確保すること、すなわち「遊動性」を確保することであるとし、著者はここに柄谷の遊動性概念の現代的意義を見出します。

 柄谷行人の理論は新書であってもけっこう難しいのですが、それを丁寧に読み解いた上で、現代的な課題との接点をしっかり描き出しており、柄谷論としても現代社会論としても示唆に富むものになっていると思います。

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H.S.さん「都市における「ひとり」と「みんな」の選択:なぜ私たちは「ひとり」を選びながらも人間関係に悩むのか」

  • 対象書籍:南後由和『ひとり空間の都市論』ちくま新書2018.

 この論文はまず、南後氏の著作が描き出す、ワンルームマンションからひとりカラオケまでさまざまな「ひとり空間」が都市に出現している実態を丁寧に読み取ります。その上で、本の中で扱われているような「ひとり空間」と、それに対置される「みんな空間」とを、人々はどのように「スイッチング」しているのか、という問いを立てます。そしてそのスイッチングの実態を考えるために、近年における「ひとり」や「みんな」の空間の事例を取り上げていきます。具体的には、ひとりサウナ、ハコカラ、トー横などに焦点が当てられます。
 それらの事例の分析から著者は、明確なスイッチングは見出せない、なぜなら実際には「ひとり空間」と「みんな空間」は簡単には分けられないからだ、と主張します(たとえばひとりカラオケにおいて、歌うという行為は「ひとり」でなされていますが、それが友人とカラオケに行くための練習であれば、目的は「みんな」に向いています)。そしてこのような区別の難しさを、著者は人間関係における若者の苦悩の問題へと結びつけます。近年ますます「ひとり」の空間が広がっているにもかかわらず、私たちはなお「人間関係の悩み」から解放されていません。それはなぜかといえば、「ひとり」で行為する際にも、常に「みんな」と接続されている(実質的にはスイッチングできていない)からではないか、と著者は論じます。

 フィールドワークを行ったわけではないため事例の検討は表面的ではありますが、社会に現れた新しい事象の分析から社会の中の「個人」のあり方について理解を深めていくという、社会学のある種の主流の構成の上に、明晰な主張に着地することができていると思います。

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M.Y.さん「私たちは「推し活」に何を求めているのか:「推す」というプロジェクションとその多様な動機」

  • 対象書籍:久保(河合)南海子『「推し」の科学:プロジェクション・サイエンスとは何か』集英社新書2022.

 この論文はまず、推し活を「プロジェクション」(=対象の認知におけるイメージの投射)の観点から分析するという、対象書籍の枠組みを丁寧に解説します。その上で、久保(河合)氏が推し活について、生きがいになる等のポジティブな面しか取り上げていない点を問題視し、推し活が当人あるいは対象(=推し)に危害をもたらす、「悪いプロジェクション」になる可能性を検討していきます。ここで悪いプロジェクションとは、推す側が対象に対して自己本位のイメージを投影し、それに基づいて危害を生み出す振る舞いをとることと定義されます。
 著者は、さまざまな推し活の事例をふまえながら、悪いプロジェクションにいたる動機を4つに整理します。すなわち、①擬似子育て、②擬似恋愛、③擬似パトロン、④擬似宗教的行為です。推し活はしばしば対象(アイドル等)に対して自分の子供・恋人・支援者・神などの表彰を一方的に押し付けてしまう、ということです。そしてその帰結として、動機①②は炎上やストーキングという危害を、また動機③④は経済的破綻あるいは対象への過剰な要求という危害を生み出すと著者は論じます。そして最後に、他者のパーソナリティに干渉したいという、本来許されない欲求が「推し活」の背後にあることをはっきり認め、それゆえにこそ自制的に推し活をしていくべきだと主張します。

 いまや推し活は社会に広く見られ、それゆえに推し活の負の側面が社会問題として取り上げられるようになってきている中で、行きすぎた推し活の背後にある動機とそれが生み出す危害との関係を鮮やかに整理しており、大きな社会的意義があると思います。

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 以上、前回と合わせて、合計7本の卒業論文を紹介しました。どの学生も真摯に取り組んでくれて、それゆえここに紹介したように、非常に内容豊かな成果が得られました。
 
 来年度もとても楽しみです。僕も引き続き、指導をがんばっていくつもりです。

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