
いずれもシンプルな一人称視点だった過去作と異なり、今回は二人の男女の視点が交互に配置され、物語が多面的に進みます。とはいえ「優しきふるまいをインストールした共感力なき道徳マシーン」が登場する点はいつも通り。
ただし今作の特色として、登場人物たちがみな誰かのために何かをしようという意思をもっています。そしてその利他的な心は、相手の苦境に対する理解と共感を欠いているがゆえに、徹底的に失敗します。そういった無理解と失敗の執拗な繰り返しが、物語を印象的なものにしています。
たとえば、自暴自棄になって人を殺そうとしている人に対してハローワークに行くといいよと助言したり、女性の境遇の格差について美容整形を無料にするのはどうかと提案したり。誰も彼も見当違いなことしかしていません。それは相手の抱える苦悩を真剣に理解することができないからでしょう。
しかしながら、以上のように読むことがすでにどこか歪んでいるのかもしれません。他人の苦悩への向き合い方について、「適切なアドバイスができたかどうか」で考えてしまうこと、それ自体なにかおかしいのです。人間関係を問題解決の枠組みで捉えてしまうとき、私たちは相手の苦悩に共感できていると言えるでしょうか。
実のところ、この物語の登場人物たちが愚かなのではなく、他人を道具のように、あるいは特定の目的を追求するプログラムのように扱う人間関係(実はこの物語はSF的な世界設定で根源的にそう規定されているのですが)においては、私たちは誰しもすれ違い続け、孤独であり続けざるを得ない、ということなのかもしれません。
僕はこの物語の聡明で愚かな登場人物たちを、自分から遠く異質なものと感じながら、しかしどこかで自分もそうだと思えるような、とても近しい存在にも感じました。やはり遠野遥さんは稀有なまなざしをもった素晴らしい作家だと思います。
(※2025年7月11日にXに投稿したものを微修正のうえ転載)
0 件のコメント:
コメントを投稿